第41話 父、ゾーッとする

201 混濁中のため
202 3本
203 きれい
204 父、ゾーッとする
205 まだ朝
ふりかえってみて

面会時間に関係なく両親が面会に来ていたようです。

目が覚めたら母がいるので、半日眠りで苦痛時間を避けることができた、もう午後の面会時間だと思ったら、まだ朝の9時前。

「これから1日が始まるなんて嘘だ」と大泣きしたこと。

制服を着た友人たちを自分が見下ろしている映像の1コマのような夢。

覚えているのはそれだけ。

父との会話は全く覚えておらず、お花畑の記憶は持って帰れませんでした。

第40話 願い叶って

元気な挨拶も時には
今は早く
本日も騒々しく
うらやましくないから
願い叶って
ふりかえってみて

日の出とともにカーテンを全開に開けて「おはようー!」と病室を仕切るおばちゃん。家が銭湯らしく番台で培ったコミュニケーションだろうと諦め、あれだけ怖かった無菌室に移りたくて仕方なかった。

おばちゃんが退院し、窓側に移ったら男子バレーボールの選手と会えるとか、この話題でいつも騒いでいる子。興味ない上、抗がん剤治療が始まっていたのか調子が良くない。そしてガタガタと体調が悪くなり、、

「前の病院で受けた治療程度の感覚で入院しないでね」

という、みち先生の言葉通り、3月までの入院生活のように、同室の患者さんとふれあう余裕はなく面会も両親だけでした。

第39話 せっかくだから

191	せっかくなので
192	どうして
194	フラフラするから
194	フラフラするから
195	朝の儀式
ふりかえってみて

4月生まれの友人は高校1年生に進学した途端、原付バイクの免許を取得し自転車ではちょっと面倒な場所へスイスイ行けるようになりそれが羨ましかった。

その免許が取得できる運転試験場が病院の前(当時)!!
こんな好立地に病院があるので、4月末骨髄移植の説明を受けた後、本屋に寄り問題集を購入し、退院したらバイクでエンジョイ!海でも行こうかな〜。そんなことを考えて入院。

抗がん剤、放射線治療の時と比べたら半ば治ったかと錯覚するくらい体調が良く「移植に挑む」という方向性は同じでしたがまだまだ医師(まる先生)と患者(私)の危機感といいますか意識の差が天と地ほどありました。

第38話 心構え

どうせ辛いんだから
187心構え
188転院
189チーム
190そろそろ
ふりかえってみて

「前に受けた治療程度と思わないで」と言われたことできっと骨髄移植は辛いんだろうなぁ〜と漠然と想像した。ならば自ら発する言葉を浴びて更に辛さを重ねないために

「否定系の言葉を使わない!」

と紙に書き、気合いを入れてゴールデンウィーク明け入院。

3月まで入院していた大学病院のように医師の出入りが多くなくピリッとした空気が漂い病棟は怖いくらい静か。担当のみずさん、当時新人で担当を任された最初の患者が私だったことは30年後に知りました。

入院して数日間、寡黙なまる先生の様子を伺いながら本格的な治療に入り、具合が悪くなる前に外出許可をお願いします。

第37話 最後の晩餐

しなくていいです
あのね
理由なんてこんなこと
最後の晩餐
無職
ふりかえってみて

無菌室で90日過ごす、そんな根性ないし退学しなくて済む治療ならいいかなと少しばかり望みを持っているためそれも難しいと分かる。

そして兄がドナー!
幼少のころから兄が嫌い。その兄の骨髄液を移植って体内に入るの?!ムリムリ!もう無理の境地であった。

病院では昨年から骨髄移植が始まりまだ数人しか例がなく、その移植でしか助からないという状態なのに深刻さに気が付かず「受けなくていいです!」とキッパリ言い切ってしまった。

その時、「3ヶ月に1度入退院を繰り返していたら髪が生えてきてもまた抜けちゃう、その繰り返しだよ。骨髄移植で治ったらもう髪抜けることないんだよ。」のたった1言で「受けます!」とコロッと心変わり。主治医のまる先生は告知をして共に移植に挑みたいと両親に話したけれど両親はそれを拒否。親心なのでしょう。

たとえ「血液がん」と知らなくても「血液が作れなくなる病気」と聞けば身体中を巡る血液が作れないって危険かもと、、と思う事なくゴールデンウィークを過ごし、すみさん、ひとくん、しいちゃん達に手紙を書きます。看護学生さんだったくにちゃんは無事国家資格に合格し看護師として働き始めます。この頃は新聞に合格者の名前が掲載されていました。

第36話 想像が追いつかなくて

主治医 まる先生
みお先生
ガラス越しに見た無菌室
想像が追いつかなくて
やーめよっと
ふりかえってみて

主治医となるまる先生の出会いはいいのもではなく、触診の後に丁寧すぎる手洗いの後ろ姿を眺めながら「この先生嫌だ~」と今日限りの付き合いになるよう願いは叶わず、、

それがこれからの長い長い紆余曲折にお付き合い頂くことになるとはこの時は思いもよりませんでした。

診察の後、柔らかな笑顔で無菌室を案内してくれるみち先生。今立っている1人通れるくらいの短い通路は面会室。通路の先はもうひとつ無菌室があり、この時は2部屋空き状態。

骨髄移植後そのガラスの向こう側で90日過ごすこと、極めつけが「これまでの治療の感覚で入院しないでね」の言葉。

「朗らかに言う内容じゃないよね!!」と心の声と格闘し「みち先生が主治医だったらよかったのに」の思いは無菌室見学で砕け散り「骨髄移植やーめよ」と自分の決意に晴々するのです。

(みち先生は「脳の中のシュークリーム」のライオン先生です)

第35話 退学するわ

違う違う腸じゃない
高すぎる
退学するわ
玉線譜
2本で80円
ふりかえってみて

腹巻のように帯状に腹部から背中を半周回る発疹が出て刺すような痛みの原因は過敏性腸症候群ではなく帯状疱疹でした。

治った頃は転院予定の病院で骨髄移植の説明を受けることになっていたことと、6日通学しただけで免疫が低下云々、、、今の時点では高校は無理だろうと自ら退学届を職員室に取りに行きます。両親や学校はさぞホッとしたことでしょう。

病気になってから車での移動はほとんど寝たまま。景色が空だけになり、電線が音符を書く五線譜に見える。骨髄移植の説明を聞きにいく途中起き上がると渋滞の国道、排気ガスまみれのツツジが咲いていました。

転院予定の病院はこれまでの大学病院とは雰囲気が違い、いくら休日といってもとても静かで人がウロウロしていない。

「予定」というのは、通学しながら治療が受けられないのであれば今までの病院で3ヶ月に1度の治療(嘘の話)を受けるつもりで決定権はあくまで自分!(告知受けていないので無駄にややこしいのです)それよりもヤクルトが2本で80円の自販機があり帰りヤクルト買ってもらおう〜と!自販機が1番印象に残りました。主治医となる医師に会うまでは、、、

第34話 すっかり高2

すっかり高2
6日目の夜
救急
夜勤でバッタリ
カツラも診断もゆれる
ふりかえってみて

制服のブレザーが重く、着て半日過ごすことが難しいということで自分のためだけに作られた

「カーディガン許可証」

歴史もなく、ちらほらヤンキーもいるこの高校で「許可証」の必要性を感じながら母に送迎してもらい新学期から登校。

外見も気にせず、この先治療を受けながら高校生活を過ごせると勝手に思っていましたが、実際は「骨髄移植で転院し退学するのでそれまで娘に夢を見させて下さい」と両親が頼んだ仮の高校2年生。

通学して6日、腹痛が起こり父と夜、救急外来へ。

偶然救急夜勤の担当日だったひろ先生と会い、これまでの状態などを説明してくれてとても安心しました。

その夜は帰宅し、翌日バリウム検査を受けた結果は「過敏性腸症候群」

医師から「退院したばかりで原因はストレス」と言われたとき「退院してイキイキしているよ」と心の中で呟き、診断にモヤモヤしながら帰宅。その翌日、本当の病気が身体に現れます。バリウムでわかる病気ではありませんでした。

第33話 夢をあきらめないで

夢をあきらめないで
見誤る
ドナー検査
モト
復学でいっぱい
ふりかえってみて

3月初旬退院。

退院の日、ありこちゃんと呼んでいた看護学生さんから、いい歌だからとカセットテープをもらい車中で聞いていたら、岡村孝子さんの「夢をあきらめないで」が流れてきました。

歌詞に触発されたのか「退院したことを報告するから高校に寄って」と運転中の母にお願いし、母を車に残し四つん這いで階段を昇り「退院しました!」と授業中の教室の扉を開けると、誰も声も出さない一瞬の空気に「この外見じゃドン引きするだろう」と教室に入ることなく扉を閉めました。

悲しいというより自分の行動を反省。

知らぬところで「骨髄移植」のためのドナー検査が行われ父、母、兄が検査したところ、兄が移植のドナーに決定し転院し骨髄移植を受けることを知ります。家族も骨髄移植というものがどういうことなのか理解しておらず、自分自身も待った無しの状況とは知らず「通学しながらなら受けてもいいよ」と余裕シャクシャク、4月の復学を心待ちにして過ごすのでした。

第32話 泣いていいんだよ

面会時間
ある日の夕方
泣いていいんだよ
琴線
退院日が決まる
ふりかえってみて

2月末、遅い夕方「もう誰も来ないから泣いても大丈夫だよ」とコノさんから声をかけられました。なぜコノさんはそう感じたのか聞き返す余裕もなく冷たく閉じていた心情が揺り動かされるのを感じました。

固く縛っていた糸がスルスルとほどけ、包んでいた氷が一気に溶けて目から溢れ出し声を上げてギャーギャー泣きました。この「琴線に触れる」という経験は生涯忘れる事ができない思い出の1つです。

泣きやむまでコノさんは温かい手で握ってくれました。

数年後、入退院を繰り返していたすみさんからナベさん、コノさんが亡くなったと知らせを受け、後に母からコノさんは再発したら助からないと宣告を受けていたのであの時、既に厳しい状況だったと聞きました。真の強さを持つ優しい人たちとの出会いは年齢の割に早く訪れた、多様な出会いから生きるモデルが作られていく出発点だったのかもしれません。